2012年3月9日金曜日

匿名はマルチ=ユニバースをつくるのか(2)

自称「有名大学教授」で、ほんとに有名国立大学の教授(50代前半か?)と、ほぼみなされる矢吹樹は、そのペンネームを「やぶき・いつき」と読ませているが、じつは本人が大ファンである「あしたのジョー」の矢吹丈(やぶき・じょー)をもじって(やぶき・じゅ)としたところから漢字を選んで付けたらしい。

彼の「大学動物園」という著書の奥付は昨年の6月になっている。帯のキャッチフレーズの一部にはこうある。

《魑魅魍魎の「大学」の裏ネタ、本音をユーモラスに描く、おもしろくてタメになる痛快エッセイの決定版》





構成は、第一章「とんでもない学生たち」、第二章「とんでもない大学当局」、第三章「とんでもない教員たち」、第四章「おかしな知人たち」。

ようするに大学内の人々と知人の悪口オンパレードである。

本人は「悪口ではなく事実である」という論理でこれを正当化しているが、基本的に悪口を言うのが好きな人であることは、本人とみなされている国立大教授の研究室ホームページを見れば、その一端が窺える。



TOPページで、学生たちとの飲み会の写真とともに、会場となった居酒屋のビールが「滅茶苦茶まずかった」というコメントが添えられているが、ごていねいにも撮影場所として、店の実名をさりげなく小さく記している。

このコーナーはスライド形式でつぎつぎにスナップ写真が展開するのだが、ほかにも忘年会・新年会・懇親会などで学生たちと撮った写真が出てくるが、それらには、どれひとつとして会場の名前がない。

ビールの味をけなした居酒屋の写真にのみ、キャプションに店名が書いてある。

そういう人であるらしい。




さて本の中身だが、最初の数十ページは「こんな学生もいるんだなあ」と、それなりに面白く読めたが、そのうちに不快感のほうが増してくる。

というのも、全編悪口ということだけでなく、ほぼすべてが彼の現在の職場(大学)が舞台になっているからだ。

つまりこれはユーモアでもなければ風刺でもなく、「日常生活の腹いせを活字にして、個人的なうっぷんを晴らしたうえに、相手に復讐をする」だけの目的で書かれた本なのだ。



芸能人の毒舌というのは、ツービート時代のビートたけしがそうであったように、クールな計算とセンス、そしてなによりも本人が有名であることによって、毒舌がたんなる悪口にならず、ユーモアとして成立している。いまの有吉もそうだ。

矢吹樹は、ものすごく芸能人志向が強い人で、テレビに出ているタレント教授をものすごくうらやましい思いで見ているに違いない。そして、いつの日か自分も「テレビでおなじみの○○先生」と言われるようになりたいと願っていることが、本や削除前のツイッターなどから容易に想像できる。

だが、彼には毒舌と悪口の区別がまったくついていない。

編集者は帯に「ユーモアたっぷりに描く」「ユーモラスに描く」と二度も繰り返しているが、残念ながら著者の吐き出す悪口にはユーモアのカケラもない。



ともかく、読み進めていって不思議になるのは、「これだけ身内の悪口を書けば、矢吹樹の正体はすぐにバレてしまうのではないか。そこを本人はどう考えているのか」ということだった。

たとえば「筆者の勤務先の附属病院の白衣は、なんとアロハシャツのような非常に派手な柄物なのである」と書いている。

アロハ白衣は、いまではそれほど珍しいことではないので、その事実だけをもって大学の特定はできないが、逆に、彼の勤務先と推定されている大学の附属病院がそうであれば、やはり矢吹樹の正体の推定につながる。

そうしたことに対する警戒心が、まったくないのはナゼなのか?



そんな疑問がぐるぐると頭の中を回っているうちに最後まで読み進め、そして「あとがき」で著者のおそるべき感性が明らかになる。

その部分はこうだ。(読みやすいように一行アキを入れた)



《「他人の悪口を集めて本にするなど、今まで主張してきたことに反するじゃないか」とお怒りの読者もいるかもしれないが、読者には誰一人として登場人物が誰なのかはわからないはずだ。

誰のことを言っているのかがわかるのは、本書の中で紹介された手ごわい奴ら本人だけなので、特定できない人の悪口を言う分には何も問題はないであろう。

筆者は、読者の中に本書に登場した人物がいることを期待している。

自分のことを笑いものにした本にお金を出し、しかも冷や汗たらたらで読むのであるから、これほど面白いことはない。

もう最後に、読者にはおわかりだと思うが、本当に手ごわいのは筆者本人だったのである。》



本人のモラルは議論するまでもないが、それはちょっと脇に置いて、アゼンとするのは、どうやらほんとうに正体がバレないと思っているらしい点だ。

悪口を書かれた本人でなくても、まずこの大学の関係者であれば、誰のことを書いていて、しかも著者が誰であるかは一発で特定できるだろう。

そして学外の人間にとっても、個人名はわからずとも大学名は推定できる。で、最後は、著者本人に大問題として返ってくるのが容易に想像できるはずなのだ。

それなのに著者は、悪口を書かれた人間だけが自分のことだとわかり、ひとり恥じ入るという局面を勝手に想定している。




では、「どうせあんまり売れないマイナー本だからいいのだ」と割り切ったのだろうか?

ところが「あとがき」の最後の最後にこう書いてある。

《大学は面白ネタの宝庫なので、もっともっとご紹介させていただきたいし(中略)それには本書がミリオンセラーになる必要がある》



どうやら「ひっそりと悪口を言いまくり」というつもりは毛頭ないようだ。

仮にミリオンセラーになったら、その印税をもって砂を蹴立てるようにして大学を去るつもりだったかもしれないが、売れれば売れるほど、矢吹樹の正体がバレる確率は等比級数的に高まる、という、ごくあたりまえの法則をどう考えていたのだろうか?



「正体とみなされている人物」のブログや、ネット上に掲載されている削除前の矢吹樹のツイッターを見るかぎり、この人は相当に自己顕示欲が強い。

それはそれで結構だが、自分を客観的に見つめる目をあきれるほど欠いている。

そこでぼくは「精神的多次元&統一世界」である「マルチ=ユニバース」という発想をあてはめてみた。



本を出すよりも前、矢吹樹という名前でツイッターをはじめた時点で、この教授は、もうひとつの精神的宇宙を持ったのだ。

その宇宙は、根っこのところで「○○○○」という実在の人物像につながっているのだが、矢吹樹の都合のよい部分では、素顔の本人と完全に切り離されている。

矢吹樹は実在のX大学の教授○○○○とまったく同じ人生を歩んでいながら、他人の悪口を言う局面では、このふたつのキャラは都合よく完全に切り離されるのだ。

だから矢吹樹は、自分が○○○○であることが絶対にバレないと確信する。



この判断が、いかに客観性を欠いたものであるかという点に気づかないところが、ぼくの造語である「マルチ=ユニバース」が彼の心の中に構築されている証拠だといえよう。

ネット社会は、こうした「もうひとつの精神的宇宙」を持つことを可能にした。

たんに匿名性がそうさせているのではなく、匿名(仮名)によって作り上げた第二の精神的宇宙に、多数の人々がネットを通じて入り込んでくるからだ。

それによって仮想キャラに生身の人間と同じ息吹が与えられることになる。

仮想世界に現実味を与えるのは、そのサイトを見にくる現実世界の閲覧者である。そして、彼らからコメントをもらうことで、なおさら仮想世界には「都合のよい独立性」が生まれる。



ときには仮名など使わず、本名であっても、ネット上の世界と現実の日常世界が完全に遊離してしまう瞬間が訪れる場合もある。

現実世界における自分の立場を忘れた失言を書き込んでしまうのは、こんなときだ。そして、それをやると間違いなく炎上する。



ともかく、矢吹樹の世界は、ツイッターにおける高慢な発言がきっかけで崩壊した。

彼はどのような形で、矢吹樹と実在の自分との再統合を図るのだろうか。