2012年3月18日日曜日

あのときぼくはナニ語をしゃべっていたんだろう?(1)

みなさんのはじめての海外旅行はどこでしょうか。

グアム、ハワイ、韓国、香港、パリ、ロサンゼルス? パッと思いつくメジャーどころを挙げてみましたが、このあたりなら、ことばが通じなくても、それほどパニックにはなりそうもないところですよね。

ぼくの海外初体験は、いまの若者からみれば「おくて」に入るでしょう。なにしろ大学を卒業するまでは、一度も海外に出たことがないんですから。




でも、それは当時では決して珍しいことではなく、大学の友人数人が三年か四年のころ海外に行ったのを、ほかのみんなで「すげー、金持ちは違う~」とか言ってたんですから(笑)。

ほんとですよ。学生運動の残り火がまだくすぶっている七〇年代前半なんて、そんなものです。



ぼくの海外初体験は、社会人になってから、ニッポン放送入社2年目の夏でした。

下っ端のディレクターのくせして、意を決して上司に休暇を申請し、ありがたいことに許可をいただきました。でも、初海外なのに身の程知らずにも、マイナーな国を回る完全なオリジナルひとり旅だったもんですから「もしかしたら旅先で死ぬかもしれない」と身辺整理までして、悲壮な思いで出かけたのです。



その準備期間中ですが、当時、月の家円鏡師匠(現=八代目橘家圓蔵師匠)の「円鏡のハッピーカムカム」という番組をやっていた大先輩のディレクターMさんが、台湾が死ぬほど好きで、台湾にカノジョがいて、ヒマさえあれば台湾に行ってたんですが、その人が「よしむら、おまえ、仕事休んで海外行くんだって? 入社2年目で、いいコンジョしてんな。生意気だな、てめー。ま、いいや。じゃ、おれの顔がきく代理店紹介してやるよ」と、言われ、べつにぼくの行き先は台湾じゃなかったんですが、「じゃ、おねがいします」と頭を下げました。



ちなみにぼくの行き先は、ギリシア、エジプト、ケニア、パキスタンでした。はじめて、それもたったひとりで海外に行く人間が設定するコースじゃありませんよね。

それにぼくはギリシア語もアラビア語もスワヒリ語もウルドゥー語も、ぜんぜん知りません。しゃべれないのはもちろん、基礎知識のかけらもありませんでした。

英語も「ハワイ湯~」がやっとの志垣警部レベルです。

それでひとり旅は無謀でしょ。

しかし、事態はそれに輪をかけて無謀な展開に。



出発当日。そのころはまだ羽田空港でした。朝、空港にいろんな書類を持ってきた台湾専門の代理店氏が「すみませ~ん、よしむらさん。エジプトのビザとれませんでしたあ。向こうでとってください」

おい、ちょっと待て。なんだ、それ。

うろたえる若葉マークのぼくに、さらに追い打ち。

「あのお、うちではアフリカに個人で行くお客さんを扱うのはよしむらさんが二人目なので、よかったら、向こうで撮ってきた写真を、うちのパンフとかで使わせてもらえませんか」

ぼくがアフリカ個人旅行二人目? 聞いてねーよ、そんなの!

Mディレクターの爆笑する顔が浮かんできました。



しかも、その時点では、ぼくはもちろん、代理店の彼もまだ気づいていなかったのですが、ケニアから出国してさらに他国へ回る旅行者は、黄熱病の予防注射をうたなければならなかったのです。が、そんなの指示されてないし~。

つまり、エジプトのビザなし、黄熱病の注射なし、という二つのルール違反を抱えたまま、はじめてのおつかいに、いや海外旅行に、ひとりぼっちで旅立たねばならなくなりました。

これが入国審査で見過ごされるはずもないのは明らかです。



のっけから波乱含みで搭乗したのは、忘れもしない、ルフトハンザ機でした。西ドイツのフランクフルト行きです。

「西」ドイツね。

羽田を離陸したときは、まじで「生きて帰ってこられないかもしれないな」と思いました。



さて、水平飛行に移ってからの機内。

英語もわかんないのに、ドイツ語のアナウンスなんかされた日には、もう緊張のかたまりで、日本人のすっちーこい、と念じても、なんか肩幅がぼくの何倍もありそうな金髪のおばさんばかり。

そのおばちゃんふたりが、飲み物のカートを転がしながら近づいてきたときには心臓ばくばくで、「おーりぇんじ・じゅーす」と「えぷる・じゅーす」はどっちが通じやすいだろうか、と心の中でリハーサルをしながら、けっきょく土壇場で最も発音がかんたんそうな「こーひー」と言ったら、「温かい飲み物はあとで」(と、おそらくそう言われたと思うが、それすらちゃんと聞き取れない)。

「いえーす、いえーす」とニコニコ笑って、シートに背中をうずめて「ふーっ」。照れ隠しの笑顔は、もちろん消えています。初みじめ。



ところでこの飛行機、電車で言うなら「各駅停車」。気が遠くなるような南回りコースです。

たしかそのころはまだソ連の制空権の影響などで、旅客機は北極圏最短コースを飛べず、北回りでヨーロッパに行くときは、アンカレッジで給油をしなければなりませんでした。

それでも南回りよりは格段に早いです。が、とにかく代理店氏がセッティングしたのは南回り。

まず香港へ、それからインドのカルカッタ(現・コルカタ)、パキスタンのカラチ、そのあとは、ちょっといま手元に当時の記録がないし、記憶もないんですが、ひょっとしたらイランのテヘランに降りたかもしれません。そしてギリシアのアテネです。

しかし、若葉マークのぼくは、いきなり香港でパニックになるのでした。(つづく)