2012年3月1日木曜日

実話の映画化にひそむ危険性@「127時間」(2010)

監督は「スラムドッグ$ミリオネア」(2008)でアカデミー作品賞をとったダニー・ボイル。主演は、この作品のあと「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」で主演を務めたジェームズ・フランコ。

この「127時間」は、2010年アカデミー賞の作品賞や主演男優賞にノミネートされた。世界を感動させた一青年の生還の物語を映画化したもの。

まず、現実に起きたアクシデントの流れを、映画に基づいたあらすじではなく、主人公本人が事故現場でNBCキャスターのトム・ブローコウに語った1時間20分ほどのドキュメンタリー番組(YouTubeで見られる)と、主人公の著書(小学館文庫から出ている)によって記そう。




27歳と6カ月の青年アーロン・ラルストンは世界的に知られるインテルに入社しながら、コロラド州の4000m級の冬山に単独登攀するなど、クライマーとしての腕を磨き、アルバカーキ山岳救助隊にも加わった経験を持つ。

やがてアーロンはPC世界よりも大自然を選び、2002年、インテルを退社してコロラド州アスペンのスポーツ用品店に勤務。

2003年4月下旬、ユタ州のブルージョンキャニオンの、人の肩幅すらないような、ヘビがくねったようなきわめて狭い峡谷の割れ目を単独行動中、その割れ目の途中に引っかかっていた重さ500キロのchock stone(くさびのようにはまっていた岩)の上に慎重に乗ってから、3m下の最底部へ飛び降りようとした。

だが、乗ってから、その岩が彼の動きに反応して動き出す。危険を感じたアーロンは、すぐさま岩から飛び降りるが、直後、その岩が彼の上に襲いかかってきた。そして反射的に突き出した右手が岩と壁のあいだにはさまれた。

ほとんど人が通りかかることなく、上空からものぞき込めない割れ目の底で、身動きが取れなくなった。



彼は登攀用のギアは一揃え持っていたが、水の残りは1リットル、わずかな食料、それにレザーマンのマルチツールの中国製コピー、ヘッドランプ、ビデオカメラ、デジカメなど。

レザーマンのマルチツールというのは、有名なビクトリノックス・スイスアーミーの万能ナイフの、プライヤーがメインについたもの、と思ってもらえばいい。

ぼくもレザーマンを何バージョンか持っているけど、ときおり異様に安いレザーマンがネットなどで「正規輸入品の新品」として売られている。ひょっとしたらそういうのが中国製の模造品なのかもしれない。

そのナイフで岩を削ろうとするが、ほとんど効果はなく、また、仮に削れたとしても、自分自身の右手がストッパーになっている状態では、右手に新たな重力を与える結果しか生まなかった。



絶望の日々が過ぎ、やがて彼は自分の右手を自分で切断するより、生還する手段はないことを悟る。ところが、意を決して、マルチツールの大きいナイフ刃を皮膚に当て動かすのだが、信じられないことに、中国製ニセ・レザーマンは皮膚にわずかに血が滲む程度のひっかき傷をつけるだけだった。

ただし、小さいほうの刃は切れ味はマシに思われたので、その刃は使わずにとっておく。

さらに日にちが経ち、アーロンは自分の尿を溜めて飲みながら、水筒に残された飲料水を確保しておくが、ついにそのピュアな水のほうも飲み尽くし、最終決断を下す。

どうしても腕を切断するしかない。



はさまれた親指にナイフを突き立ててみると、音を立てて腐敗ガスが噴き出してきた。そういった状況も彼に決断をうながした。壊疽菌が全身に回ることを恐れたのだ。

そして、まず岩にはさまれた右手に、むりやりねじりを加えた力をかけ、橈骨と尺骨を順番に折った。

パキーンという音が峡谷に響く。一度、二度。

そこまでやったら一気に進むしかなく、模造品レザーマンの、岩削りには使わなかった小さいほうのナイフ刃を骨折部に突き立て、切断作業に取り組む。

おそるべき冷静さは、動脈だけは最後に切断すべきだと判断し、筋繊維のあいだから覗く動脈はより分けて最後に残していることだ。

静脈までは止血帯なしで切断する。それからキャメルバックのハイドレーションシステム(後述)のチューブを止血帯として腕に巻き、カラビナを使ってねじ上げる。そして腱の切断に取りかかる。

だが腱は強靱で、ナイフの刃で引いても持ち上げてもびくともしない。そこでプライヤーでつまんではねじ切る。

神経繊維にふれると燃えるような激痛が肩まで這い上がり、そのたびに瞬間的に気絶する。そして動脈を切断。

ついに右手首を切り離し、トラップから抜け出す。事故発生から6日目の昼前だった。



岩にはさまれたままの右手首を残し、切断部をレジ袋で包み、空にしたキャメルバック(彼はここに尿をためていた)を三角巾にして、それをシュリンゲで首から吊して固定した。

狭い割れ目を通って峡谷の岩棚に出たアーロンは、20メートル下まで片手でザイルを操作し懸垂下降する。

そこには昆虫の死骸がいっぱい浮いた泥水だまりがあったが、その水を飲み、急激な水分補給によって、すぐそれが下から出てしまう状況ではあったが、なんとか自分の車を止めた13キロ先まで行こうとがんばる。

その途中で、奇跡的に家族連れのハイカーと遭遇するのである。



では、映画本体の話に移る。

日本の映画ファンサイトの感想を見ると「さすがダニー・ボイル」の連発で、つまりボイルがアカデミー賞受賞監督であるという勲章に目がくらまされているのだろうが、その一方で、こんな誤った批判が投げられている。

「そもそも(水を)500ccしか持たずに車を離れるって、どういう了見なのか」



投稿者は、映画の出来ではなく、実在のアーロンの行動を批判しているわけだ。

でも、実際はどうだったかといえば、アーロンはバッグパックの中にキャメルバック(Camelbak=商標名)と呼ばれるチューブで吸い取る形の3リットル入りのリザーブタンクを背負っており、それとは別に水筒には1リットルの水があった。

つまり、行動開始時点で彼は4リットルの水を持っていたのである。



事故に遭遇するまでの段階で、リザーブタンクは空になっていたが、水筒にはフルで1リットルの水が残っていた。岩に右手をはさまれてから、彼は気持ちを落ち着かせるために水筒の三分の一を一気に飲んでしまい、その失策にハッとなったことが著書に記されている。

それが現実でありながら、勝手にカンチガイした投稿者が500ccだけ持って車を離れるって、どうよ、みたいな批判を書き込めば、それを見た人間が「そういう安易な行動をするから右手を落とすのさ」というふうな批判と軽蔑の輪が広がっていく可能性が出てくる。

ネット時代のコメントって、こういうところが非常に虚しい。


おそまつな思い込みが真実を駆逐していく。



アーロンは、岩に右手をはさまれたまま、左手でビデオカメラを操作して、断続的に自分の姿とコメントを記録している。その一部だけ(事故から時間がさほど経過していないとき)公表されているが、それ以外の部分は映像的に刺激が強い(本人談)という理由で、音声のみが公開されている。

でも、監督とアーロンを演じるフランコはそこもすべて見ているわけで、だから映画の中でビデオに向かって語るところはセリフも含めてほぼ本物どおりなのだろうし、切断に至るまでのジェームズ・フランコの演技は評価できる。

しかし、ダニー・ボイル監督の演出にも問題はある。



冒頭、アーロンはキャニオンで道に迷ったふたりの女の子に遭遇する(これは事実)。そして彼女たちをガイドして、事故現場とは別の、狭い割れ目の中へ入っていくのだが(ここも事実)、映画では、その割れ目からアーロンはいきなりはるか下にある地底の湖にダイブするのだ。そして女の子たちも真似して、いつしか繰り返し繰り返し、ダイビング遊びに興じる。

ここはまったくの虚構だ。そして本物のアーロンは言う。そういう無謀なことは絶対にやらない。

実際のアーロンが女の子たちの前でやったのは、5mほど下の砂地に飛び降りたことだけだった。



たしかにアーロン・ラルストンも過ちを犯した。それは本人がドキュメンタリーや著書で率直に認めているとおり、単独行動の行き先を誰にも告げていなかったことだった。


だからふたりの女の子と別れてからは、誰も彼の居場所を知らず、捜索が難航した。

それ以外の点には軽率さを咎められるようなところはなく、国立公園のレンジャーも、慎重に見極めたはずの岩が動き、それにはさまれたという展開は、まさに不運としかいいようがない、と語っている。

しかしダニー・ボイル監督は、山岳救助隊にも参加経験を持つ上級者が絶対にやらないような非常識な場面を創作でつけ加えた。これはアーロンに対して、大変失礼な行為だといえる。



そしてもうひとつ。あまりの残酷さに映画館で気分が悪くなり、何人もの観客が病院に運ばれたという切断シーンだ。

ここはB級ホラー映画の監督がやりそうなグロ演出と、なんら変わりがない。

問題なのは、とくに気が弱い人でなくても、この場面を凝視することは相当な苦痛を伴うために、映画館では目をそむけ、自宅でDVDを見る場合は、早送りする人が大勢いるだろうということだ。

アーロンが究極の選択をした最もシビアな場面を、たんに血まみれの肉をナイフで切るところをアップにするような見せ方をしたため、多くの観客にそこをすっ飛ばさせてしまうというのは、本末転倒もいいところだ。



同時進行で展開した友人と母親による懸命の捜索や、救出から手術台までの周囲の人間との会話、本来なら自分がピアノの生演奏をするはずだった妹の結婚式で、片腕の彼が花嫁の妹とダンスをするところや、病室での母親との再会など、アーロンの著書を見れば映画として描くべき要素はほかにたくさんあったはずなのに、けっきょく切断シーンが最大の話題となるような作品になってしまった。

アーロンの視点のみで描きたかったのはわかるが、アーロン本人の著書は、大半は主観的視点だが、捜索活動は並行して第三者的な視点でいっしょに語られている。

それを映画冒頭で使った画面分割手法で出してもよかったのでは、とも思う。



実話の映画化というのは、過去の歴史上の人物の場合は、そもそも真実じたいがたしかではないから、「映画は映画」と切り離して割り切れる。

だが、本作のように事件からわずか数年という生々しさを持つ場合は、映画を鵜呑みにして真実をわかったような気になるのは控えたほうがいいかもしれない。

とくに遭難からの脱出ものは、遭難という行為じたいに批判が殺到する風潮にあることを考えれば、なおさらだ。