2012年2月23日木曜日

主人公は「超・近接過去」へ行けるのか?

これは物理学的な自問自答ではなく、小説または映画として成立するかどうか、という問題。

タイムトラベルものの小説や映画で最も王道というか原始的パターンは、①現代の主人公が遠い過去へ行く、②現代の主人公が遠い未来へ行く、というものだった。

オリジナル版の「猿の惑星」も、一種のタイムトラベルものに入れられなくもないが、ぼく自身の規定では、光速で宇宙を旅して何千年後かへ行ったというだけでは、タイムトラベルものとはいえない。ちゃんと現代に戻ってこそ、時間旅行をテーマにした作品だといえる。




やがて、時間旅行にもバリエーションが出てきた。

主人公を過去の人間に置き、③過去から現代にやってきて文明の発達に驚く、というパターンが現れた。とくに携帯が普及しはじめた1990年代末期あたりから、江戸時代のサムライが携帯文化に出会ったら、とか、そういう発想のドラマをよく目にするようになった。

それから④未来から現代にやってくる、という切り口もあるが、例は少ない。



一方、⑤現代の主人公が「かなり近い過去」へタイムスリップするというふうに、時間旅行の移動距離を縮めることによって、ストーリーからSF色を薄め、むしろ現実的なドラマに仕立てたのが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。

マイケル・J・フォックス演じるマーティーがタイムスリップしたのは、わずか30年前。そして、若き日の父と母が結婚すべきかどうか迷っている。もしもふたりが結婚しなければ、自分の存在は消滅する。

この設定は秀逸で、SFでありながら、ホームドラマという現実味が出てきた。



しかし①~⑤までのパターンは、ある意味、作者は楽である。時間旅行のスパンにおいて、主人公自身の歴史がダブることはないからだ。

BTF-1のマーティーにしても、30年前にタイムスリップしたときには、自分はまだ生まれていない。



やがて、これを逆手にとって、⑥子供時代の自分に出会うという第六のパターンが現れた。こんどはタイムスリップの過程で、違う時代の自分自身と遭遇する。

しかし、自分が大人で、相手が「子供時代の自分」という設定ならば、記憶の矛盾をうまくかわすことができる。

つまり、大人の自分は子供時代の自分を知っているが、子供時代の自分は、未来からやってきた大人の自分を知らない。だから、ふたりが出会って会話を交わすときに「事情を知る者」と「知らない者」とのすれ違いが面白く描けるわけだ。



では、1時間前という超・近接過去へのタイムスリップだったらどうなるか。

そこで自分自身と出会う、あるいは1時間前の自分に意識だけが融合するというドラマを描けるか。

たとえば1時間前の自分は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を7人目が死ぬところまでしか読んでいない。しかし1時間後の自分は最後まで読み終え、あの有名な大どんでん返しを知っている。

その結末を知った自分が、知らない自分と出会って、あるいはその意識とすり替わったとき、記憶の整合性はどうなるのか。



フィクションだから、1時間前の自分と1時間後の自分が会話をするシーンは、物理学的な論理性など無視して、作者のご都合主義でいかようにも描ける。でも、記憶の整合性をどうしたらいいのか?

そこの部分だけは小説であっても、仮想世界なりの説明が不可欠だ。

「1時間前にタイムスリップする小説を書け」と言われたら、ショートショートならすぐ書けるけど、長編にするには解決しなければいけない「仮想世界での論理矛盾」があまりにも多い。



短時間の記憶がなくなってしまうというクリストファー・ノーラン監督の映画「メメント」は、それに似たテイストはあるけれど、本質的な部分では違う。「メメント」は、同監督の「インソムニア」から「インセプション」へとつながっていくように「記憶」とか「夢」がテーマだ。

でも、けっきょく超短距離移動のタイムトラベルは、記憶の矛盾をテーマに描いていくしかないのだろうか?

さもなければ、「あのときこうしていれば」という後悔をすぐに修正できる人間の物語――つまりパラレルワールドの世界を描くことになるのか。



もっとほかの切り口はないかな~と探しているときに、光速超えの計測はケーブルのゆるみだった可能性があるというニュース。

前々回のブログに書いたそばから、そんなニュースを持ってこないでよ(笑)。