2011年12月17日土曜日

ある感動のストーリー6(最終回)

燃えさかる建物の中で死を覚悟し、睡眠薬を飲んだシュピルマンだったが、翌朝、彼は頭痛とともに目覚めた。

薬が効かなかったことと、建物の火災が五階まで広がらなかったためである。

またしても彼は生き延びた。




その後も、建物の屋根裏に潜んだり、そこが見つかりそうになって、壊れた穴から急斜面の屋根に這い出して、へばりついていたら狙撃されたりと、絶体絶命のピンチを何度もくぐり抜け、汚い水をすすり、ネズミのふんにまみれたパンをかじったりしながら、破壊作戦進行中のワルシャワで、たったひとりで逃げまどいつづける。

そうしながら、それまでのレパートリーを頭の中で弾きつづけることも忘れなかった。いま風にいえば「エアーピアノ」だ。

そして1944年初冬、ある建物で食料探しに夢中になっていると、突然、背後から声をかけられる。ふり返ると、そこにドイツ人将校が立っていた。



映画の字幕でも日本語版自伝でも、ここで将校の物の言い方は上から目線で、たとえば本では「ここでなにをしているのかね」という風に訳されている。

だが、息子のスピルマン教授は原典において、将校が敬語のドイツ語を使っているという重要な点を指摘する。

おそらくyouの意味でもちいる二人称主語を、duではなくSieを使っているということなのだろう。当然、動詞の活用語尾も変わってくる。

ドイツ語から英語に訳されるときにそのニュアンスが失われ、英語テキストから和訳された日本語字幕や日本語書籍も当然同様で、いちばん大切な意味が失われてしまったと残念がる。



ともかく、ドイツ人将校に見つかったシュピルマンは、こんどこそ――ほんとうにこんどこそ、もうダメだと思う。そして言った。

「もう動けません。どうぞお好きなように」

すると将校はきいた。「あなたはなにをして暮らしているのですか」(と、敬語で)

シュピルマンがピアニストですと答えると、別の部屋にあったピアノの前につれていき、なにか弾くように求める。



いくら著名なピアニストでも、シュピルマンは二年間、なにも弾いていない。指はアカでこわばり、爪はずっと長いあいだ切っていない。しかもピアノは調律が狂い、鍵盤も思うように動かない。

それでもシュピルマンは弾いた。ショパンの嬰ハ短調のノクターンを。

すると将校は、シュピルマンをユダヤ人だと確認したうえで、屋根裏の隠れ場所へ導き、定期的に肉などの食料を持ってきて、さらに毛布や、最後には自分の外套まで与えるのだ。



シュピルマンは、相手が名乗るわけにはいかないのを承知していたから、自分のほうから「ポーランド放送のシュピルマンです」と名乗る。そして、あとで自分に助けられることがあったら、この名前を出してください、と。

敗走するドイツ軍にあって、この将校が捕虜になるのは時間の問題と思われたからである。立場が逆転する可能性は、まもなくだった。



だが映画で見たとき、ぼくは、さすがにここはハリウッド的な演出による作り話か誇張だろうと思っていた。話がドラマチックすぎるから。

ところが、事実はこのとおりだった。



戦争が終わってしばらくした1951年、ポーランド放送局に、ホーゼンフェルトと名乗るドイツ人女性から一通の手紙が届く。

「私の夫はソ連の収容所にいます。夫は戦争も終わりに近づいたある日、シュピルマンという人を助けたと申しています。もしもピアニストのシュピルマンさんなら、夫の助けになってほしいのです」



シュピルマンは助命嘆願に奔走した。

だが、ポーランドからの問い合わせに、ソ連の返事は冷たかった。

「収容所には戦争犯罪人しかいない」

それからほどなくして、ホーゼンフェルトの獄死が伝わってくる。脳卒中を起こし、さらには精神に異常をきたした末の死だという。

しかし、ヴィルム・ホーゼンフェルトが助けたのはシュピルマンだけでなかった。ナチスのありかたに大いなる疑問を抱いていた彼は、自分の命にも関わることなのに、何人ものユダヤ人の命を救っていたことが判明している。

彼の凛々しい横顔の写真と、日記の一部は書籍版の「戦場のピアニスト」巻末に掲載されている。



この人道的なひとりのドイツ人将校がいなければ、ウワディスワフ・シュピルマンは生きて終戦を迎えることはできず、息子のクリストファー・スピルマンも誕生せず、多くの日本人学生がスピルマン教授に学ぶこともなく、またポランスキー監督の「戦場のピアニスト」によって、人々がワルシャワ・ゲットーの出来事を詳しく知ることもなく、エイドリアン・ブロディは、まだアカデミー賞俳優になっていなかったかもしれない。

そして、このブログ記事もなかった。




ホーゼンフェルトの人柄は、間違いなく、21世紀に生きる何千万という人々に影響を与えているのだ。