2011年12月14日水曜日

ある感動のストーリー2

帝政ロシア時代にシベリア収容所送りで死刑判決を受けたユゼフ・グジェチュナロフスキを母(ハリーナ)方の祖父に持つ「クリッシ」(愛称)は、1951年に生まれたが、ロシア革命が起こらなければ、彼はこの世に生を受けなかったことになる。

それだけではない、クリッシの父は、母方の祖父ユゼフ以上に、まさに宝くじ的な奇跡の連続で死を免れ、戦後ハリーナと結婚して、ふたりの息子を授かった。

つまりクリッシは、父方と母方、双方の系譜の奇跡的な生き延び方により誕生したことになる。




クリッシの父は戦前からポーランドでは知られた人物で、ほしいものも自由に買えない共産主義体制下のポーランドでは、一家はきわめて恵まれた立場にあった。



しかしクリッシは18歳のとき、ロシア語の習得と気分転換のために訪れた黒海のリゾート地ソチで裕福なイギリス人夫妻と出会ったのをきっかけに、イングランド北部にあるリーズの大学に入り、肉体労働などのアルバイトをしながら大学生活を送り、やがてイギリスの国籍も取得する。

黒海の出会いも人生の転換点だったが、イギリスでもクリッシの運命を変える出会いがあった。



戦前から日本で柔道を教え、柔道界ではその名を知らぬ人はモグリともいうべき存在で、戦後はBBCの日本語部長として日本に長く住み、将棋にも詳しく、武士道と騎士道に関する著作や将棋に関する著作もあるトレバー・レゲットが創設した柔道場に通い、すっかり柔道にのめり込んだのだ。



それだけでなく、クリッシは日本語に取り憑かれた。

本人はこう書いている。

「日本語の勉強にも磨きをかけた。語学の勉強というのは、要するに質よりも量だ。中毒になって朝から晩までやればいいのだ」

さらに、ちょっと日本人にはグサッとくることも書いている。

当時からロンドンには多数の日本人がいたが、みんな英語の努力をせずに、できれば日本語でしゃべりたいと思っている。だから、そこにつけこんで、彼が日本語でしゃべる努力をすると、相手になってくれる日本人はいくらでもいた、と。



そうやって、クリッシの日本語はみるみる上達し、やがて20代なかばに日本にわたって四国の愛媛で英語の塾を開いたりする。

それからいったんイギリスに戻り、またロンドンで大学に入り直し、さらに30代の前半はアメリカのエール大学大学院で東アジアの歴史研究にはげみ、その後、また日本で東大大学院の研究生に。



やがて40代のとき、アメリカバージニア州の大学院に学んでいる一回り下の日本人女性と出会って結婚する。

この女性は一橋大学経済学部の出身で、ぼくの12年後輩になる計算だが、「後輩」なんていう言葉を使っては畏れ多いほどの勉強家のようだ。

一橋大学の大学院を出て、米国に留学、博士号をとって、現在は日本の大学で准教授。

ぼくの大学時代といえば、人より速く山岳悪路をラリー車で走ることにほとんどの時間を費やし、空いた時間はマージャンにうつつを抜かし、まあ、この時期は小説は猛烈に読んだけど、詰将棋創作にもはげみ、詰将棋の専門誌に作品を投稿したり原稿を書いたり。で、大学の授業はほとんど出なかったため留年した。

そして現在は人殺しの小説とおばけの小説を書いている。

同じ大学を出ておきながら、この差……。



話を戻そう。

クリッシはこのすばらしい日本人女性と結ばれて、現在は福岡に住んで大学教授を務めている。そして尊敬する自分の父親と自らの自叙伝を、日本語で執筆し出版した。

ここまでの彼のプロフィールは、その本からまとめたものである。

あえてここまで「クリッシ」という愛称を使わせていただいたが、クリッシの父親――つまり、祖父のユゼフが娘のハリーナに「おまえの人生はおまえが決めなさい」と言って結婚を後押しした人物――の「奇跡」に、ぼくは打ちのめされた。

次回はその父親自身が1945年から執筆をはじめ、翌年に出版した驚愕と感動の自叙伝の話を。

【ある感動のストーリー その3につつく】