2011年12月4日日曜日

かつては「なでしこ女学生」も登れた場所


これが幾多の人々を恐怖で凍りつかせ、その場で金縛りに遭わせる戸隠山「蟻の塔渡り」(ありの・とわたり)。

奥のほうから手前へと登ってきて、八方睨(はっぽうにらみ)からふり返って撮ったショット。撮影は戸隠遭対協・救助隊リーダーの秦さん。

右へ落ちても左へ落ちても奈落の底で、よくて重傷、かなりの確率で天国へ。

写真には写っていないが、手前側には「蟻の塔渡り」よりさらに幅の狭い「剣の刃渡り」というナイフリッジもある。



山の神は女性だから、女が登ると山が嫉妬して怒り出すという理論武装?によって、女性はずっと登山を禁じられてきた。

女人結界(にょにん・けっかい)である。

明治5年、ときの新政府はようやく女人結界を廃すべしとの太政官布告を出すが、実際に女性たちが積極的に山に向かいはじめるのは、それから四半世紀以上を経過しなければならなかった。



女性の登山を後押ししたのは、明治初期に筑摩県から分かれて誕生した長野県の教育者たちである。それは明治30年代なかばから「学校登山」という形ではじまった。

当時は男子と女子は別々の学校に通っていたわけだが、学校集団登山は、じつは男子校に先駆けて女子校から盛んになっていった。



残されている写真を見ると、当然とはいえ、和服である。足もとは足袋にわらじ、日よけのための麦わら帽をかぶり、寒さと雨よけに「ござ」をまとう。そして杖。これが当時の「山ガール」の定番スタイルだった。

「聖職の碑(いしぶみ)」として知られる中央アルプス駒ヶ岳集団遭難のときは、このござを持っていたか否かが生死の分かれ目となった。



ともかく、そういう和装の大和撫子たちが、心身鍛練を目的に教員に率いられて県内各地の山々を登った。戸隠も例外ではない。

そしてこの蟻の塔渡りを、彼女たちも渡った。

と書くと、「えーっ、そんな恰好で?」と驚いてしまうが、当時の写真を見ると、蟻の塔渡りもこんな恐ろしい場所ではなく、稜線には針葉樹も生えていた。

風化によってどんどん稜線が狭くなり、ついに「剣の刃渡り」では立って歩くのも困難というほどの幅になってしまったのだ。



秦さんによれば、途中まできたけれど、恐怖に腰を抜かして先へ進むことも後戻りすることもできなくなる登山者もめずらしくないそうだ。

金縛りで済めばいいが、転落する人も跡を絶たない。