2011年12月2日金曜日

なぜ不適切なたとえを使うのか、といえば

夕方6時に妻に起こされるまで、朝の8時ごろから爆睡。起こされなければ、もっと寝てた。

ひさしぶりに「夜中から読み出して途中でやめられず、朝まで一気読み」の海外ノンフィクションに出会ったから。


その中でこういう一節があった。

「言葉は生きるためにも強力な道具となりうる」






最近つくづく思う。美しい日本語を大切にしよう、とかなんとかいって、日本人は昔から言葉によるホンネのコミュニケーションをず~っとお粗末にしてきた。そのツケが回ってくる時期になったかな、と……。

いま、沖縄でとらぶってる前沖縄防衛局長の発言だって、けっきょく思っていることをダイレクトに言葉として表現せずに、つまらんたとえに置き換えようとしたあげくの不始末だ。



過去の政治家や官僚の失言の多くは、不適切なたとえから生まれている。

それは、たとえがヘタとか、人の気持ちを忖度できない無神経な人間であることもひとつの要因ではあるけれど、根本は、自分の考えをストレートに表現する能力のなさ、またそういう自己表現をしないことをよしとする民族的言語習慣に起因している。



「防衛相が普天間飛行場移設に関する環境アセスメントの評価書の提出時期を明言しないのはなぜかと」記者から問われた沖縄防衛局長は、自分の立場でコメントできないことは「ノーコメント」とするか、答えるのであれば、たとえ話に逃げず、ちゃんとした言葉で説明しなければならなかった。

そういうストレートな表現力がないから、愚かなたとえに逃げる。

「きみたちねー、ぼくが謎かけのようにコメントするから、そこで真意を察しなさい」といった「以心伝心こそ美しい」的態度こそ、政治家や官僚として高等な伝達文化であると思い込んでいる古い悪習。

今回は、その悪習が招いた不適切発言だ。



批判するほうも批判するほうで、女性蔑視だ、人権無視だなどと叫んでいるが、それは50年以上も前から変わらない原始的なやり方でしかなく、批判もまた方向違いもいいところだ。

いま日本は「失礼の文化」になっている。礼を失していることは徹底的に批判・糾弾せよ、という風潮だ。



意味ない。



ぼくは、前沖縄防衛局長の失言は、肝心なところをぼかしたり、たとえ話にしたり、格言の引用などでごまかすという「もって回った言い方こそ高等戦術」として、じつはホンネを発信できない無能さを隠す日本語文化に原因があると考えている。

女性蔑視や人権無視だと訴える人々もまた、ワンパターン化した反応でしかない。おそまつ。

たとえ方が無礼とか無神経である点が問題なのではない。たとえ話でしか記者とコミュニケートしないところが問題なのだ。



野田総理は前のふたりと違って発信力の基礎的な才能はじゅうぶん持ち合わせている。なのに、それを封印して使わない。

それがいかに誤った戦略であるかに気づかないと、日本はそう遠くないうちに外交的鎖国状態に置かれるだろう