2011年12月17日土曜日

ある感動のストーリー5

自伝「戦場のピアニスト」(原題「ある都市の死」)はロマン・ポランスキー監督によって、きわめて忠実に映画化された。

その忠実さの理由は、第一にポランスキーが戦後、個人的にウワディスワフ・シュピルマンと交流があったこと。第二にポーランド人を両親に持つポランスキー自身が少年時代にポーランド第三の都市クラクフのユダヤ人ゲットーから脱出した体験を持つからだった。

だからゲットーを映像で再現するとき、自分の目で見てきたリアリズムがあった。

シュピルマンはポランスキーが撮るからこそ、映画化の許諾を与えた。




自伝は1946年に出版されたことからもわかるように、第二次大戦が終わった直後から執筆されたため、回顧録というには、あまりにも記憶が生々しい。

しかも本人の冷静な観察力、洞察力とあいまって、ホロコーストを逃れた体験記としては出色のできばえとなっている。



息子のスピルマン教授によれば、この自伝は1998年にドイツで半世紀ぶりに出版され(そのときはまだシュピルマンは生きていた)、ついで英訳が発売された時点でポランスキー監督が読み、99年に映画化をシュピルマンに打診。2000年初頭には、映画化が決定した。

しかし、主役が誰になるかはまだ決まっておらず、脚本もできていない2000年の夏、ウワディスワフ・シュピルマンは88歳で死去する。

映画はその2年後に完成し、きわめて高い評価を受けてアカデミー賞監督賞と主演男優賞を受賞。

あと2年、生きていてくれたら、自分の奇跡の生還を再現映像で見るというすばらしい体験ができたのにと、残念だ。



主役のエイドリアン・ブロディについて、息子のスピルマン教授は「エイドリアン・ブロディは父には似ていない。顔も体つきも違う。にもかかわらず、映画を見ながら、彼は私の父以外のなにものでもないと思っていた。若い日の父を見ている錯覚に陥っていた。(中略)見かけだけではなく、父の精神を演じきっていたのだ」と述べている。



さて、絶滅収容所に送られた家族と別れ、ひとりになったシュピルマンだが、抵抗組織の支援などを受けて隠れ家を転々とする。もちろん、もうピアノを弾く機会などない。

その間、飢えと病(激痛を伴う急性胆嚢炎)と密告などの危機にさらされながら懸命に綱渡りの逃避行をつづける。それでも病から立ち直るためできるだけ規則的な生活をしようと、朝の9時から11時まで英語の勉強、11時から午後1時まで読書、昼食をはさんで午後3時から7時まで、また英語の勉強と読書、という生活をつづける。

この異常な環境下でも語学の学習をつづけるという精神力! それが息子のクリッシにも遺伝したことは間違いない。そして息子の場合は英語だけでなく、まったく違う言語系統の日本語を身につけたわけである。



ところで戦局は、ドイツ軍が敗走につぐ敗走を重ねるようになる。

それによってドイツ軍は、ワルシャワを廃墟にして去ることを決定。連日のようにユダヤ人の公開処刑を行ないながら、ゲットーの壁を壊しはじめた。

1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦の開始がシュピルマンたちにも伝わり、ワルシャワの解放まであと少し、と思われたが、それは撤退を余儀なくされたドイツ軍のワルシャワ完全破壊命令という形で、シュピルマンの身に襲いかかる。


シュピルマンの潜む石造りの建物に戦車の砲弾が撃ち込まれ、SS隊員によって一階に火がつけられる。五階に隠れていた彼のところまで煙が這い上がってきて部屋の輪郭もはっきり見えなくなり、呼吸も困難となって、ついにシュピルマンは自分の運命もここまでと覚悟。

いざというときのために所持していた睡眠薬を飲み、ソファで眠りに落ちた――


(ある感動のストーリー6 最終回につづく)