2011年12月8日木曜日

「演出家は鏡である」 なるほど、しかし…

それで、荒川務氏が紹介した浅利慶太さんの言葉の件なんですが、「演出家は鏡でなければいけない」というものでした。

荒川氏も言ってましたが、俳優はどうしても自分のいいところだけを見ようとする。でも演出家は、鏡のようにいいところも悪いところも映し出し、悪いところを指摘していく、というわけです。

宝塚在籍25年の実績をもつ出雲綾さんが、3年のフリーランス期間を経て、ことし劇団四季のオーディションを受けたのも、ようするに「鏡が必要」だと気づいたからだという趣旨のことをおっしゃっています。

では、作家の場合はどうか、ということなんですが。





先ごろのリレーノートで、梶原プロデューサーが指摘し、ぼく自身も書いたように、吉村達也を客観視する吉村達也がもうひとりいる、というのが、ぼくの場合の鏡だと思っています。

その鏡を、いかに曇らせずに毎日磨いておくかが大事だな、と。



作家と俳優の違いは、俳優の場合は、あくまでチームプレーの一環として、客観的な鏡が必要なわけです。演出家による意思の統一が必要になってくるからです。

しかし作家の場合は個人プレーなので、演出家が、演出家のセンスで指示を与えようとしても、それは非常にむずかしい部分がある。



もう15年以上も前になるでしょうか、ある編集者から聞いた話。

その出版社には、いわゆる昔気質の編集長だったか、編集部長がいた。昔気質というのは「作家の○○はおれが育てた」という自負を、「おれの思うとおりの作品を書かせることができた」という点において評価するタイプの人です。「おれがうまくあいつの才能を引き出したからだ」ではなく。



ぼくが優秀な編集者や優秀な編集長だと思う人は、「この作家にできるベストの路線、ベストの内容を引き出す」という考えを持ってくれている人です。つまり、「その作家の個性と才能にとって可能な最上限を求めるが、不向きな要求はしない」ということでもあります。

幸いにもぼくは、そういう担当編集者や編集長に恵まれています。

ところが昔気質の編集者――とくにぼくが若いころ、新宿二丁目あたりで毎晩飲んでは文学論議を戦わせるような人――の中には、まるで作家を自分の代筆者であるかのごとく考える人も、間違いなくいたのです。



で、ぼくが聞いた話に戻りますが、15年以上前のころ、権威ある文学賞もとった大ベテラン(もうお亡くなりになっているので書かせていただきますが)に書き下ろしを依頼し、担当編集者はいい原稿だと思って、上に見せると、その昔気質の上司がノーを出す。それで作家に戻す。作家は書き直して、また見せる。また編集者はいいと思うが上司がノー。

それを何度かくり返し、ようやく作品が完成し、見本が上がってきたのですが、それに目を通した大ベテラン作家氏がポツンとひとこと。

「なんだか、ぼくの作品じゃなくなったみたいだね」



大きな文学賞をふたつもとった作家に、そんなことをつぶやかせるなんて、悲しいエピソードだな、と思いました。



ほんの15年、20年ほど前までは、舞台演出家のようなタイプのベテラン編集者が大勢いたんです。しかし、やっぱり小説と芝居の世界は違うんですよね。

そしてもうひとつ言えることは、芝居における演出家は小説における作者であって、芝居における俳優は小説における登場人物だ、ということです。

芝居の俳優と小説の作家とを同一視することが、いかに間違いであるか、ですよね。



しかし、鏡を持つことはたいせつです。

ですから作家は、人に託すのではなく、自分自身で鏡を持っていないといけない、と思うわけです。