2011年12月15日木曜日

ある感動のストーリー3 「戦場のピアニスト」(2002)


2002年度アカデミー主演男優賞受賞 エイドリアン・ブロディ。

同・監督賞受賞 ロマン・ポランスキー(正しくはポランスキ)。

ブロディが演じているピアノの前の人物は、ウワディスワフ・シュピルマン。ポーランドでは名の知れた作曲家でピアニスト。

首都ワルシャワにおけるナチスのユダヤ人狩りとワルシャワ壊滅作戦を、奇跡の連続により、たったひとりぼっちで生き抜いたユダヤ人。

前回まで「クリッシ」という愛称で記述した、九州産業大学国際文化学部日本文化学科クリストファー・ウワディスワフ・アントニ・スピルマン教授の父である。

(父の姓が「シュ」ピルマンで、息子の姓が「ス」ピルマンである理由は後述する)



1939年9月1日にヒトラーのナチスドイツがワルシャワ侵攻を開始し、第二次世界大戦の幕が切って落とされたとき、シュピルマンはワルシャワにあるポーランド国営ラジオ局でピアノの生演奏を行なう仕事を得ていた。

だが、ナチスドイツの侵攻で事態は一変する。



やがてワルシャワでは人種狩りが(最初のうちは、まだ極端に過激ではない形で)はじまった。ユダヤ人は一定以上の現金を持ってはならず、残りの資産は銀行に預け、不動産はドイツ軍に引き渡さねばならなくなった。

「劣等人種」と決めつけられたユダヤ人は列車での旅行を禁じられ、電車の運賃も「優等人種」アーリア人の4倍を払わねばならなくなった。



11月のある夜、父と弟とともに、急ぎ足で帰宅していたシュピルマンは、ドイツ人警官からトーチライトの光を浴びせられ、「おまえらはユダヤ人か」と詰問される。

ついで壁に向いて立つように言われ、警官はあとじさりしてカービン銃の安全装置をはずした。

「これでおしまいだ」とシュピルマンは叫び、隣で父は道路にひざまずいて泣き出した。



だが、もうダメかと思ったとき、警官がきいた。「おまえら、なにをして暮らしている」

シュピルマンの弟ヘンリクが答えた。「音楽家だ」

すると警官は言った。「おまえたちは運がいいな。おれも音楽家だ」

そして三人を突き飛ばしながら言った。「行けよ」

これがシュピルマンにとって最初の「絶体絶命」であり、最初の奇跡的幸運による命拾いの瞬間だった。



だが翌12月になると、ユダヤ人はダビデの青い星を縫いつけた白い腕章をつけることを強制され、苛酷な労働につくことを強いられる。

翌1940年、ユダヤ人居住地区を中心にチフスが発生したことを理由に、ドイツ人がポーランド語で発行する「ワルシャワ新聞」は「ユダヤ人たちは社会的寄生者であるばかりでなく、チフス汚染を広めている」と書き、ユダヤ人を特定エリアに囲い込む必要性を説いた。

やがてユダヤ人地区とアーリア人地区を隔てる「壁」が建設された。ワルシャワ・ゲットーである。



ゲットーの壁の建設も、ゲットー内の自治もユダヤ人評議会にゆだねられ、ユダヤ人警察も誕生したが、じつはこれは民族内相互監視であり、ユダヤ人がユダヤ人によって死地に追い込まれるという、のちのちまで怨念を残すシステムとなった。

ゲットーの中にはカフェもレストランもあり、シュピルマンはそれらのカフェでピアノを演奏して食いつないでいく。

見た目には一定の自由がありそうなゲットー内の暮らしだが、決して壁の外に出ることは許されず、壁の中では貧困と飢餓と伝染病が蔓延していった。



このゲットーでは断続的に「人間狩り」が行なわれていたが、それはドイツ軍による苛酷な労働に従事させられるためだろうとユダヤ人たちは思っていたし、実際、最初のうちはそうだった。

1942年に入って、突然、ドイツ軍による人間狩りが中断される。早春の出来事だ。

だが、ゲットー内のユダヤ人たちは、安堵するどころか不吉な予感に怯える。これは嵐の前の静けさで、もっと悪いことが起きるのではないか、と。

その予感は的中した。



5月に入って、ふたたび人間狩りがはじまった。しかし、こんどは狩人はドイツ軍ではなかった。ユダヤ人警察とユダヤ人労務局に、その任務が負わせられたのだ。

そして同じユダヤ人によって駆り集められたユダヤ人たちの行き先は――

トレブリンカ絶滅収容所。



ついで6月。ゲットーでナチス親衛隊(SS)の秘密警察ゲシュタポを動員した大虐殺がはじまった。

シュピルマンと弟のヘンリクは、向かい側の建物4階で起きた惨劇を窓越しに目撃する。

商売人の一家の住居に押し入ったSSの下士官が、テーブルについていた家人たちに「立て」と命令。しかし、身体の不自由な老人だけは、何度命令されても立てなかった。

激怒した下士官は老人を椅子ごと担ぎ上げ、四階のバルコニーから、椅子に座った恰好のまま路上に落とした。

映画に描かれていたあの場面は、シュピルマンが見たままの事実だった。

【ある感動のストーリー4へつづく】



※ウィキペディアの情報を鵜呑みにするな、というのは出版関係者の合言葉になっているが、クリストファー・スピルマン氏の著書を読めば明らかであるウィキペディアの間違い二カ所(2011/12/15現在)を、ここで指摘しておく。

①父の姓が「シュピルマン」なのに息子の姓が「スピルマン」なのは、息子のクリストファー氏が「英語圏での生活が長かったことによる」と、ウィキペディア「クリストファー・スピルマン」の項目で解説されているが、これは書き込んだ者が自分の想像だけで決めつけたものだろう。実際、出典も根拠も提示されていない。

ほんとうの理由はぜんぜん違っていて、クリストファー・スピルマン氏が著書「シュピルマンの時計」の中でこう述べている。

「スピルマン(シュピルマン)は当然父とまったく同じだが、日本人にはシュピルマンのSZを正確に発音できる人がめったにいないことを知り、愕然としつつ、かといって、いちいち訂正するのも面倒になり、カタカナ表記するときは、スピルマンを正式名とすることにした」



②映画「戦場のピアニスト」のウィキペディア項目にも、さらには原作となった、父・ウワディスワフ・スピルマンが1946年に出した「ある都市の死」の再発売である日本語版「戦場のピアニスト」の訳者あとがきにも、初版本は

「ポーランド共産主義政権の手によりすぐ絶版処分となった」(ウィキペディア)

「原書は刊行されるとすぐに、発禁に近い形で早期に絶版処分を余儀なくされた」(「戦場のピアニスト」訳者あとがき)

と解説されているが、息子クリストファー氏は「原作者の長男として、歴史学者として」と、強い口調でこの見解をはっきり否定している。

初版本が評判をとったのに再版されなかったのは、発禁措置によるものではなく、当時のポーランドが極端な物資不足にあえいでおり、増刷用の紙が手配困難だったことによるという。