2011年11月3日木曜日

早川雪洲 in 「チート」(1915)

早川雪洲は明治19年(1986)に千葉県に生まれ、昭和48年まで生きた。87歳という長寿だった。なぜかアメリカのimdbでは1989年生まれになっているが……。

この人がアメリカに渡るのは明治末期で、シカゴ大学を卒業後、映画の道に進んだ。

デビュー作は1914年(大正3年)の「O Mimi San」――お美々さん、ということなのだろうか、詳細は不明だが20分のショートフィルムだ。もちろん、サイレント(無声映画)である。

同じ年に製作された「The Typhoon」をデビュー作とされることが多いが、「O Mimi San」のほうが公開は8カ月早い。


雪洲がブレイクしたのは巨匠セシル・B・デミルが監督した「チート」(1915年)だ。



セシル・B・デミルについては、またふれる機会があると思うが、戦後1952年に若き日のチャールトン・へストンを起用して「地上最大のショウ」でアカデミー賞作品賞を受賞。1956年には、そのチャールトン・ヘストン主演で超大作「十戒」を撮っている大物監督。

とにかく金のかかる映画を撮ることで有名で、金のことでスタジオと大ゲンカするのは日常茶飯事。

ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」(1950)には、キンキラキンの衣装の俳優たちを使って「サムソンとデリラ」(1949)を撮影中のデミル監督本人が登場する。




で、このセシル・B・デミル監督が若き日に撮った「チート」は、もちろんサイレント(音楽もない完全なサイレント)だが、だからこそ日本人の雪洲が、英語力をハンディにすることなく主役を張れた。

上の写真はその冒頭シーン。なかなかの色男である。
全盛期の化粧をしたジュリー、あるいは米米CLUB時代の石井竜也を思い起こさせる、ちょっと濃いめのメイクが似合っている。

このあと雪洲は洋装で登場するが、もっと決まっている。大金を貸す代わりに人妻(もちろん白人)を愛人にしてしまおうという悪役だが、そういう設定がすんなりはまるほどの色男であり、のちに「猿の惑星的イメージ」(笑)で捉えられる日本人像とは段違いだ。

そのエキゾチックな風貌に、アメリカのおばさま方はクラクラ~ときて、それはもうヨン様以上のsessue様ブームになったらしい。



1919年公開の「The Tong Man」の出演料が当時で20万ドルというデータが残っているからびっくりだ。チャップリンには及ばないが、断然トップクラスのギャラである。

だから雪洲は、ハリウッドに大豪邸を建てるビッグスターになってしまった。まったく、夢のような話だ。



ただし、この「チート」では、借金のカタに我が物にしようとした人妻に、自分のシンボルマークである鳥居形の焼きゴテをあてるという、あまりにも残酷なキャラ設定だったので、日本からは批判の声が上がった。

すでに公開当時、第一次世界大戦は勃発しており、日本は日英同盟に従って、対独戦争に踏み切った。アメリカはまだ参戦していなかったが、「チート」公開の二年後1917年にヨーロッパ戦線に参戦。日本とは同盟国になった。

なので、そのあたりの配慮だろう。公開時は「ヒシュル・トリ」という、日本人らしからぬ役名ながらも、とりあえず紋付着て日本人として登場していたが、いつのまにかハカ・アラカウというビルマの象牙王という設定に字幕が変えられた。紋付のままで(笑)。



ともかく、先に「戦場にかける橋」で紹介した斉藤大佐役によって、日本人初のアカデミー助演男優賞にノミネートされた早川雪洲には、こうした偉大なる過去の足跡があったのだ。