2011年11月25日金曜日

氷室想介の視点


これは京都三条大橋。昭和25年建造。

たしかぼくの記憶では、「男はつらいよ」の第一作(1969)で、寅さんが初代マドンナの光本幸子を、ここで見かけるシーンがあったような。

氷室想介の京都オフィスは、この三条大橋よりは、もう少し上流(写真左手方向)にあるという設定だが、彼はこのあたりを散歩するのも好きだ。

この空の広さと、山の近さを見てほしい。上流側に見える山並みが北山で、ビルの右手に見えるのが東山三十六峰の一部だ。

東京を離れた氷室想介は、いつも広い空と、美しい山と、静かな川を眺めて暮らしている。

だが、しかし――



現在の国道一号線は五条大橋を通っているが、旧東海道はここが西の起点(江戸から見れば終点)だった。

いまでこそ、ここから四条大橋(写真右手方向に進む)にかけてはカップルのデートコースだが、旧東海道の起・終点だったころには、二条、三条、四条、五条に架かる各橋のたもとを中心とする河原は、江戸方面からやってきた旅人や、地元の人々でごった返すコミュニティ広場だった。



人が集まるところには店がたち並び、見世物が行なわれる。歌舞伎もこうした河原を舞台にはじまった。

お上からの通達も河原の立て札に掲げられたし、庶民の不平不満を書き連ねた落書きも、やはり河原に立てられた。河原は人と人との情報交換の場であった。また、真偽を問わず、噂の発信地でもある。

つまり河原とは、中世から近世におけるネット世界なのである。



そして人が集まる河原は、もうひとつの「見世物」の舞台でもあった。

公開処刑の場である。



秀吉の姉を母に持ち、秀吉の養子にまでなった豊臣秀次は、けっきょく秀吉の実子・秀頼の誕生により疎外されてゆき、精神的にも不安定となったことから、最後は秀吉から切腹命令が出て、高野山で自害に追い込まれた。

その首をさらされたのが、ここ三条河原であり、秀次の正室・側室・子どもら39人が、数時間かけてつぎつぎと首を刎ねられて処刑されたのも、ここである。

さらには、秀吉暗殺を企んだからか、あるいはたんに盗賊の罪でか、ともかく石川五右衛門が子どもとともに釜ゆでにされたのも、この三条河原だ。



なぜここで処刑されたかといえば、河原は大勢のギャラリーを集めるには絶好の場所だからだ。



いまでは、この橋の北西角にはスタバがあり、(とくにB1は、地下といっても鴨川の河原レベルで窓からの景色がとってもよい)、いつも若者たちが集っているけれど、きみたち、そこの河原は、夜も更けると、秀次一族や石川五右衛門親子の亡霊が徘徊する魔界なんですぜ(笑)。



氷室想介の京都オフィスを、こうした河原に面した場所にもってきたのは、じつはとっても深い意味がある。それは「魔界百物語」の第五巻で明らかにされる。