2011年11月1日火曜日

そもそも発想が逆なのでは

いろんな言語を勉強してきて、ぼくは学校で教わった英語学習方法の根本的な間違いに気づきました。

べつに英語にかぎらなくて、韓国語でも中国語でもアラビア語でもフランス語でも同じことなので、以下の文章で「英語」を「外国語」と一般化して読んでくださってかまいません。

気づいたこと――それは、学校のみならず、社会人になってからも、英語の勉強の仕方がそもそも「根本から逆だった」ということでした。

逆とはなにか。





それは「英文和訳」が先にあって、「和文英訳」は後まわし、という常識です。これが、外国語学習における根本的な誤りだとわかった。



よくこういうことを言いますね。「英語でものを考えるようにしろ」と。言われたことがありませんか?

でも、なかなかそれができない。

まあ、できないのは当然で、ぼくたち日本人は、バイリンガル環境で育っていないかぎり、日本語でものを考えるのはあたりまえです。英語で考えろ、なんて言うほうが無茶。そんなん、できるわけネー(笑)。

ただし、英語で表現しろ、という指示なら正しい。

しかし、その表現がお手上げとなる。それは、ぼくたちが「英文和訳優先教育」を受けてきたからです。

単語レベルでみても、英単語の意味丸暗記はやっても、日本語の単語を英語の単語に直す丸暗記は、ほとんどやりません。



それは、英語の授業が「英語を理解するために行なう」ものという視点でしか考えられていないからです。

ほんとうは、英語の授業とは「英語を使って、自分の言いたいことを表現できる」ことを最優先するカリキュラムでなければなりません。



これまでもぼくは何度も書いてきましたが、言葉というものは日用品です。したがって、国語である日本語はもちろんのこと、英語の授業とは、まず第一に「日用品の使い方」であるべきなんです。

しかし残念ながら英語授業のシステムは「ガイジンさんが話している意味を理解する」ために行なわれており、「私の言いたいこと、考えていることをガイジンさんに理解させる」という部分には、力点が置かれていません。

そして、大半の語学書がその視点でつくられています。



では、どうすればいいかというと、じつにかんたんで、手元にある教則本を和訳から先に見て、それを英語でどういうか、を考える訓練に切り替えればいい。文章でも、単語でも、です。



いまパッと開いた本に、こういう英文が載っていました。

All students are to be in school by 8:15.

和訳はじつに簡単で、「生徒は全員8時15分までに登校しなければならない」。

むずかしい単語はないので are to be  に義務のニュアンスがあることさえわかれば、訳は簡単。高校生なら、これはいくらなんでも「上級問題」の部類には入らないでしょう。

でも、先に

「生徒は全員8時15分までに登校しなければならない」

という文章があって、これを英語に訳せといったらどうでしょう。たちまち上級問題に早変わりです。これがぼくたち日本人の外国語オンチの本質だと思います。



つまり、英文和訳と和文英訳とでは、「住んでる世界がまったく違う」のです。

けっきょく、英文和訳でいくらハイスコアをとっても、和文英訳ができなければ、日用品としての英語は使えない。したがって、ガイジンさんとはコミュニケーションはとれないことになります。そういう訓練を、じつはほとんど受けてきてないからです。


そこで現実的な和文英訳のトレーニングとは、百パーセントの正解を最初から探るのではなく、とにかく正解につながる単語や、表現をできるだけ短時間で思いつくことではないかと気づいたのです。

たとえば

「放射性廃棄物は各地を危険地帯に変えてしまう」

という日本語を見たとき、①「放射性廃棄物」は英語でなんというのか――という「和英辞典力」と、②「~を~に変えてしまう」は英語でどう表現するのが適切か――という「サンプル文型ストック力」がものを言ってくる。

①と②が同時に浮かべばOKですが、radioactive waste という単語が出てくるだけでも、言いたいことの表現は一歩前進です。あとは身ぶり手ぶりのゼスチャーでなんとか通じたりもする。

この英文は、ある教則本に英文→和訳の順で出ていたものですが、ぼくはそれを英文のところを隠して、日本文を先に見て、「単語」と「言い回し」のどっちでもいいから、とにかく早く何かを思いつく、という方法でトレーニングしています。

これはすべての言語について言えること。

ドイツ語だったら、この日本語なら、動詞の定形はどの位置にくるべきか、をパッと決められるようにする。あとは前置詞さえ正しく使えれば、格変化なんて間違ってもいいや、と。

そうやって満点は望まないが、短時間のうちに正解のごく一部でも思い浮かべられるように、というトライ方法で、いかめしいイメージのドイツ語になじんできました。



たとえば京都を歩いていて、「ナントカ国のナントカ人」から突然、道をきかれたとき(さすが国際観光都市で、これまでに何度もあります)、学校の試験で満点をとるような模範解答を口に出そうとするのではなく、とにかく「ふたつめの信号」「左に曲がる」「あの高い建物がみえる?」「あの突き当たりを右」「神社」「お寺」なんていう表現や言葉がバラバラに出てくるだけでじゅうぶんなわけです。

でも、日本の語学教育では、相手が言ってることは聞き取れても、こっちからの表現ができない。ちょっとでも間違えるとバツにされてしまう授業を受けてきたおかげで、いきなり口頭試験みたいな気分になってしまうからです。

立場が逆になればわかりますが、最初から完璧な日本語をしゃべろうとして固まってしまう外国人(そういうタイプはめったにいませんが)よりも、知ってる単語と、わずかな表現パターンを並べてくれれば、あとはこっちが補正してかなりのことまで理解できる。ネイティブとの会話なんて、ビジネスでもないかぎり、それでじゅうぶんだと思うのです。



そんなわけで、「外国語を理解する」のではなく、「外国語を道具として使って自己表現する」にはどうしたらよいか、という着想で、独自の方法で独習をしているわけです。

まだまだどの言語においても、単語や文法知識は初歩の初歩ですが、仏文独訳をやったり、伊文中訳をやったり、ときにはスペイン語からインドネシア語に変えたりして、これまで鍛えられたことのない回路を開いてみようかと、取り組んでいるところです。