2011年10月16日日曜日

十三匹の蟹 ロケ地めぐり③

これが『十三匹の蟹』の作品冒頭に出てくる清盛塚。清盛橋を渡ってすぐ先にあります。

左にみえる十三重の塔が清盛塚。ただし、清盛の墓ではなく、清盛の死からおよそ100年後に建てられた慰霊塔です。少し離れたところにあったものを、大正年間の市電工事に伴って、ここへ移されました。

中央が後世つくられた平清盛像。なお、右端の琵琶塚は近くにあった琵琶の形をした前方後円墳を、清盛を慰霊する十三重の塔と同時期にここへ移動したもので、平清盛と直接の関係はありません。






おごれる平家に反発を覚えた延暦寺・興福寺などの寺院勢力や、源氏を中心とする武士の反平家勢力と後白河法皇が手を結ぶ可能性に気づき、危機感を覚えたこともあって、清盛は側近の反対を押し切って、自らの娘が母となっている(つまり自分の孫でもある)安徳天皇をつれ、後白河法皇も強引に同行させて、神戸に都を遷すことを強行します。

その落ちつき先が、現神戸駅の北方にあった清盛の別荘を拠点とする福原です。よって「福原遷都」と呼ばれますが、これには違う見方もあります。



福原はあくまで仮住まいであり、ほんとうは和田岬に近い場所に日本初の海洋都市「和田京」をつくろうとしていたのではないか、という見解で、これは平清盛が瀬戸内海という、最終的には中国の「宋」との貿易ルートにもなる海の玄関口を押さえてしまおうという雄大な戦略にのっとった造営計画があった、という理解です。

私も本作ではこの説をとっています。

その和田岬の突端から、直線距離に二キロもない場所にあるのが清盛塚であり、その最寄り駅となるJRおよび神戸市営地下鉄「和田岬」駅から徒歩数分の距離に、INAC神戸レオネッサが本拠地として使っているホームズスタジアム神戸がある。そういうロケーションです。



しかし、港湾整備以外には和田京の造営にも着手できないまま、清盛はわずか半年足らずで新京の建設をあきらめ、京都へ戻らざるを得ない事態に陥りました。

理由は複数ありますが、京都が「奈良の二の舞」になって衰退するのを恐れた延暦寺の強硬な抗議が大きく影響したことは間違いありません。

そして、それに抵抗するほどの強引な政権運営は、もう清盛にはできなくなっていた。平家凋落の兆候は、意外に早くやってきたのです。

そして清盛は、京都に戻ってすぐに高熱を発して、その生涯を閉じます。



もしも清盛が健康を維持し、その息子たちとともに権力を保ちつづけて、和田京を完成させることができていたなら、そして木曾義仲や、源頼朝の命を受けた源義経による平家撲滅作戦を撃破していたなら、21世紀の神戸も、いまの姿とはまったく異なる風景になっていたでしょう。