2011年7月7日木曜日

合唱英語の功罪

ぼくたちの世代は英語の時間、いわゆる合唱英語でテキストを読まされてきた。クラス全員で声を揃え、「あいあむあ・ぼーい。ゆーあーあ・がーる。はう、あう、ゆー。あいむ、ふぁいん・3・9、あんでゅー?」ってやつだ。

これは英語のイントネーションというものを完全に無視した教育で、いま考えればお笑い沙汰であった。

英語だけではない、国語の朗読もそうだった。合唱国語である。だから、日本の子役は台本を棒読みでしか言えない。戦前から1960年代ごろまでの子役はひどいもんだ。

「ちがわ~い。おいらが取ったんじゃないやーい。ふぇーん」と、涙も出てないのに両目のところ手を持ってくれば泣いたことになるという、棒読みかつ大根演技で、子役はつねに映画の質を落としてきた。

おっと(←ダサい合いの手)映画のほうへ話が脱線するのではない。合唱英語の話だ。





合唱英語の功罪の「功」は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的カムフラージュとでも言おうか、自分の存在を集団の中に打ち消して、テキトーにやれるところにあったと思うが、なんといっても「罪」は、英語に限らずすべての言語は「リズム・メロディー・歌詞」の三要素プラス「楽器の演奏技術」で成り立つ音楽だ、という真実に、まったく背を向けたところにあるだろう。

それを大切に考えれば、あのゆったりとした波打つような抑揚の合唱英語を教室で教えるなんてありえない話なのだ。



その、波打つスローテンポ合唱のおかげで、ぼくの頭にも、たとえば「マイ・ネイム・イズ・ヨシ」というときに、自動的に「ネイム」にストレスを置いてしゃべってしまう。真剣に英語を勉強しはじめる前までは「ネイム」じゃなくて、あたりまえのように「ネーム」だったし。

前回のブログで紹介した"American Accent Training"のレクチャーでは

"Hello,  my NAME is Yoshi"

と「ネイム」にストレスを置いてしゃべった場合、聴いた人は、名前のほかにも、まだ個人情報を言うのだろうと待ち構えるというのである。どこに住んでいるか、身長は、趣味は、家族は、等々。



もしも、そういう個人的な情報を詳しく紹介する意思がなくて、たとえばなにかのテーマについてスピーチするのであれば、

"Hello, MY name is Yoshi"

というふうに「マイ」にストレスを置くのが標準である、と述べている。



しかし、合唱英語で教育されたぼくの頭には、あのクラス全員が声をそろえて「まい・ねーむ・いず・とーむ」というメロディがこびりついており、よほど注意をしないとMYにストレスを置くことはできないのである。