2011年7月17日日曜日

人生にムダな経験なし

いまから15年ぐらい前だった。当時の担当編集者のひとりであったAさんが、ぼくにこう言った。

「作家にとって、どんな経験もムダになることはないですよね」

おっしゃるとおり。

ただし付け加えるならば、作家にかぎらず、すべての人間にとって、どんなつらい経験も、決して人生のムダにはならない。そう思う。

つらい経験なしで乗り切れるほど人生は甘いものではないからだ。





今回は「カーン大佐」などというおちゃらけ表記ではなく、はっきり「菅直人」と書こう。

菅直人が総理大臣でいるときに――しかも、あわや総理の座から追い落とされようとしていたときに――原発事故が起こったことで、日本列島は悪夢のどん底に突き落とされた。



だが、ぼくはいまの状況も、決して自分の人生にとってムダではないと言い聞かせている。

いかにも庶民のために闘っているのですという人間が権力を掌握したとたん、とてつもない独裁者になるという法則は、過去の世界史や日本の戦国史をみても明らかだが、それは「よその国の出来事」「過去の歴史の出来事」としてしか、これまでのぼくたちは捉えることがなかった。



ところが、いままさに日本国民は、どれだけ罵りの言葉で飾っても足りないほど最低の「独裁者」のもとで、最悪の日々を強いられている。こんな「ありがたい」経験を21世紀の日本でさせてもらえるとは、夢にも思わなかった。

長生きはするもんだ。(というほど、年は食ってないが)



かつて小泉首相を独裁者と批判しながら、史上最悪の独裁者・菅直人にしがみついている亀井静香が、政党的には福島瑞穂のところの、さらに10分の1の支持率しかないくせに、政権のどまんなかで影響力を行使している。

戦後日本が時間をかけて築きあげてきた民主主義のルールを完全に無視した、こうしたデタラメが横行するのをまのあたりにしても、これもまた人生でムダにはならない経験だと思おう。




ただしこれは、ぼくが東北人、とくに福島県人でないから言えることだ。自分が被災地の人間だったら、この状況への怒りで、心が爆発しそうになるだろう。



けっきょく菅は、東北の人たちをナメているのだ。

もしも原発事故が首都圏や近畿圏で起きていたら、いまごろ菅がのうのうと総理の座に座っていることはないと思う。市民の怒り爆発で暴動が起きている。

海外から被災者たちの規律正しさを絶賛されている報道をいいことに、菅は東北人の苦しみを一刻も早く取り去ろうという思いをカケラも抱かない。

いや、「苦しみ」という精神的、そして経済的な問題だけではない。放射能被害拡大の最大の責任者は、東電よりもむしろ菅にある。万なのか十万なのか百万なのか、その単位もわからないほど多くの人々の命を危機にさらしておきながら、ドイツへサッカー観戦にいこうとするその神経は、戦国時代のバカ殿レベルである。



しかし、「脱原発」の三文字さえ掲げれば大衆の支持を得ると考えてやってきた菅だが、ここにきて「脱原発」を呪文のように唱えればいいってもんじゃないと、ようやく気づきはじめた。「気づかされた」と受け身でいうべきかもしれないが。

無条件礼賛は例によって福島瑞穂ぐらいで、内閣の中からも、さらには意外にも被災地の自治体の長からも厳しい反発を食らって、菅はその計算違いにうろたえているだろう。

つまり常識ある人々は、原発をどう考えるかという立場の相違を超えて、みんなが見抜いたのだ。菅直人が、「脱原発」という三文字を書いた紙を呑み込んで不老長寿の薬としていることに。



こうしたプロセスを経て、現実感を取り戻した「原発のない社会へのめざし方」は、「脱原発」の三文字を経文のごとく掲げる人々よりは、ずっと正しい方向性を持つことになるだろう。

そういう意味で、菅直人の圧政は、決して人生のムダにはならない、と思いたい。