2011年6月17日金曜日

鈍感力

いまから4年前、渡辺淳一さんの「鈍感力」がベストセラーになったとき、ぼくはそれを読んでいなかった。

たぶん、とくにこれ以上自分が鈍感になる必要性を感じていなかったからかもしれない。テキトーなところは、とことんテキトーでだらしない人間なので(笑)。

少なくとも几帳面な人間でないことは、仕事場のちらかり方をみれば間違いない。娘が京都にくるたびに、あきれられている。

そんなぼくだが、ここにきてはじめて「鈍感力」の必要性を感じ、この本を手に取った。



6・11にこれまでの原発関係、政治関係のコメントを全削除したときにも少しふれたけれど、これ以上「敏感なアンテナ」を張っていては、健康を害すると感じたからだ。

そこでぼくは、しばらくのあいだ、意識的に「より鈍感に」なることにした。ふつうはここで「鈍カン」の「カン」に別の字をあてるところだが、そういう回路も断ち切った。




だが、スペシャル鈍感モードに入る前に、ひとことだけ書いておく。そういうところが余計なんですけどね(苦笑)。

あの原発事故が起きる前と起きた後とで、人が原発に対する意識を変えるのは当然だ。いまどき3・11前と同じ考えを持つのは、よほど強情者ということになるだろう。

ぼくだって、このままでいいと思ってるワケがない。




しかし、それでもぼくは反原発・脱原発のデモをみていると、大きな懸念を抱かずにはいられない。それは原発がなくなったら電力不足になるといったレベルの話ではない。

それは「反原発・脱原発」をテコにして、社会主義的思想を持った、現時点では少数の支持しか得られていない政党が、またキャスティングボートを握り、それに与党や野党の一部が迎合し、日本が空理空論に満ちた社会主義的幻想を追い求めるバカ国家になっていくことである。





原発の有無より、そっちが問題だ。




ぼくが脱or反原発運動のノリをきらうのは、愛国右翼といった思想に反発するのと同じで、たぶん自分が政治的にはきわめてテキトーでユルいからだろうと思う。

しかし、そのテキトーさ、ユルさに、ぼくは真の自由というものがあると思っている。




その証拠に、たとえば橋下徹大阪府知事が原発のない社会を訴えても、なんら抵抗を覚えない。でも同じことを福島瑞穂が言うと、自動的に反発をしたくなる。

それはもしかすると、エンターテイメント=笑える日常の大切さを知っている人か否か、という点に信頼の基準を置いているからだろう。

現在もそうだが、目くじらを立てることがトレードマークとなっている人間が日本の政治を動かしていく事態には暗澹としたものを感じる。オカルト的に表現するなら、暗黒の波動ばかりを受け取ってしまうのだ。

そして、戦後半世紀以上もかけて、せっかくここまで「エンタメ精神の効用」を知った国民が、そういう流れにあっさりのせられてしまう状況を見るのも悲しい。

原発のない社会を迎える役割は、明るくて笑いの大切さを知っていて、そして論理的な人に担っていただきたい。




考えてみれば、去年あたりに成人した若者から下の世代は、今世紀はじめの一時的なITバブル期を除けば、日本が好景気に沸いて、国民が浮かれてどんちゃん騒ぎに明け暮れ、楽しむためにもっと働こうという前向きなエネルギーに満ちた時代を知らない。

いや、こどものころには何もわからない、という点を考慮に入れれば、30歳以下は好景気にばく進する日本の姿を、いちども大人の実感として捉えたことがないといえるだろう。

だから、逆にいえば社会主義的国家となったときに、個人のどん欲なエネルギーを失う恐ろしさを知らない。

おまけに、ゆとり教育世代がこれからどんどん社会に出ていく。笑いの大切さを知らない左傾化した政治家が、こうした若い世代を洗脳することはそう難しい話ではない。





いまは、いくらでも政治社会的なSF小説が書けてしまう要素がそろってきている。

考え出すときりがない。





今回の原発事故に関して、なぜヒロシマ・ナガサキに学ばなかったのか、という人は多い。でも、ぼくが原爆に学ぶとしたら、それは、あそこまでの惨劇を招かなければ、日本人に笑える自由、ものを言う自由が与えられなかった、という哀しい事実への着目。そっちのほうなのだ。

そして、そうした楽しい日常を奪う危険な体制は、天皇を神格化した極右軍事政権だけに存在するのではない。旧ソ連をみても、現ロシアをみても、もちろん中国をみても明らかだ。

右寄りも左寄りも、目尻をつり上げて思想の絶対性を声高に主張しはじめたら、国民を不幸のどん底に陥れる点では同じだ。




ぼくは数年前、連合赤軍の永田洋子と坂口弘の手記をそれぞれ3冊ずつ、かなり分厚いのを読んだ。彼らには「笑い」と「情報」という、現代社会を健全に生きていくふたつの要素が決定的に欠けていたことがよくわかった。

言葉を換えていえば、楽しいことを知らず、世の中を知らなかった、とういうことだ。自分たちの狭い了見だけで組み立てたバーチャルリアリティの世界で革命ごっこをしていた。インターネットのない時代ならではの、滑稽なひとりよがりだった。

よど号ハイジャック犯人たちも同様だ。彼らがのちに、どんなに難しいことばを並べ立てて自己の正当性を論じても、それは幼稚で不健全な独り相撲でしかない。





永田洋子はその手記の中で、同志として「夫」として、リンチ殺人を主導した森恒夫について、けっきょく彼には旧日本軍の兵士と同じような資質があったという趣旨のことを述べている。

遅きに失しているが、きわめて本質を衝いた指摘であることは間違いない。

人間が本能的に求めたい「明るさ」「楽しさ」「笑い」を排除する人間は、右翼だろうと左翼だろうと健全な国民生活の敵である。




しかし、そういう香りを残した人々が、いまも政治の世界に存在するのは事実だ。

反原発ブームをきっかけに、そういう人たちが息を吹き返し、覇権を握ることが懸念される。

冷房なんてなくてもいいから原発をなくして、と単純なことを言ってる人たちは、冷房よりもっと重大なものをなくす可能性があることには思い至らないのだろう。




懸念は尽きない。




だが、渡辺淳一さんの「鈍感力」にこんなことが書いてあった。

《われわれの血管は自律神経によってコントロールされています。いい意味での鈍感力をもった人の自律神経は、異様な刺戟に見舞われることもなく いつも血管を開いて、さらさらと全身に血を流すように働いているのです。》

《いつも明るく、リラックスをしていること。これが血の流れをよくするには最良の方法なのです。》




そんなわけで、ぼくはしばらくのあいだ、なにがあってもチョーどんかんになると決めたのであった。